#119 場末

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このごろ場末にはまっている。
鮫洲にある洋服屋のアウトレット。
五反田の星製薬跡地の日当たりのわるい建物にある洋服のデザイン事務所。
等々力のはずれの安アパートにある芸能事務所。15歳のアイちゃんを筆頭に、がんばり屋さんっぽい女の子が4人所属して、個人撮影会やサバイバル・オーディションなど、地道な活動をしながら、きわどい姿をさらして、なんとか夢を追っている。
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「冗談きついなあ」と渋い顔をして、しかし、荒れた場末にだってちゃんと晴れ舞台はある。
あんぱん食ってのんびり見ていたい。

#118 宝貝好好

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ブリリアントグリーン - そのスピードで

春。おだやかな夕べ。
このバンドは京都北山あたりの人たち。
二条駅から千本通りをとぼとぼ歩いて、うちに帰る。
おしゃれなカフェが電気を半分消して、片づけしてる。
あちこちに伊吹文明の選挙ポスターが貼ってある。
この政治家のうちは室町の繊維問屋らしい。
何をやろうにも天井がもう完全に見えてしまっていて、まったく気勢が上がらない。

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15年ぶりに上海に行ってみたいような。
東京にいると、金で買えるものの天井はもう完全に見えてしまって、「だからなんだ」と気勢が上がらないが、 mop.com たとえばこのサイトから流れてくる雰囲気からすると、あちらはまだ、国じゅうをコンビニが埋めつくすには間があって、ちょっとした夢、ゆらぎ、不確実性があるような感じもする。
中学のころ『上海宝貝』って小説を読んだが、今もああいう高揚感はあるのかな。

#117 包み紙

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ある人が、なんてことない品物を箱に入れて、包み紙に入れて、人に渡す。
ときには配達人を雇う。
もらった人は、それを受け取って、封を開ける。
なんてことない品物が入っている。
家のなかのしかるべき場所にそれを置く。
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そういう儀礼。なんだかな。
たとえば、ブログに読書ノートを熱心に書いている人たち。
批評のことばは彼らにとって、包み紙を切って箱を開けるための鋏のようなものだ。
職人は使いやすい道具を作ってくれる。
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虚空にひらひら紙が舞う。

#116 彼の巡礼の年

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いまさらながら、村上春樹色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という小説をよんだ。古本屋でのんびり。
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寓話として読むなら、これは20年後の『ノルウェイの森』。
ものをつくるという営みを都会でつづけ、日常の繰り返しに少し疲れてしまった「つくる君」。
こういう人は実在する。
たとえば、こないだドイツ文化会館で会った、新潟出身、東北大修士(コンピュータ・サイエンス)、今は諏訪、東京、ロンドンを点々としてデジタルカメラのプログラムを作ってる38歳独身のKさん。彼によく似ている。
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名古屋という舞台設定は、たぶん実はどうでもいい。新潟でも仙台でもいい。
色彩のない郊外というのは日本じゅう、いや海に浮かぶ陸地にできた町のどこにでもあって、そこに人をとどめる力が、名古屋は他の町よりやや強い。
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「あの若いときの完璧に調和した居場所は、どうして急に消えてしまったのか?」という謎を抱えて、彼は旅に出る。
あちこち出かけて、「それぞれ新しい居場所を見つけたのさ。見つけられなかった人は消えてしまった」という答えを得る。
やがて彼も自らの居場所を見つけようと動きはじめた。
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それは巡礼だったのか?
巡礼というからには、彼の旅にはある種の宗教的な信念があることになる。
過去の村上作品から類推すると、それは「個人的な体験からつねに何かを学びとり、それを実践すること」なのだろう。
それは宗教的な信念になりうるか?

#115 工場みたいなところ


軍隊、病院、学校、工場、そういう近代的な機構のすべてが苦手なのだが、これを考えるといつも同じ記憶にたどりつく。丘のむこうに、四角い箱の形をした大きな建物がある。あれが病院。どうやらとんでもない病人たちが隔離されているらしい。うちの母親が脳の病気で長いこと入院していて、小学2年のころ、学校帰りにランドセルのままバスで通っていた。途中で一度のりかえて片道30分。部屋の入口のところに患者の名前とともに青黄赤のシールが貼られていて、毎日みるたびに黄色になったり赤色になったりする。こんこんとねむる母親の枕元で宿題をして、終わったら本をよんで、夕暮れになって。看護婦さんがきて。待合室に出されて。ときどき母親が目をさます。体じゅうに変な機械をとりつけられていて見るのもおそろしい。包帯ぐるぐる巻きの顔をこちらへ向けて、「はす向かいの娘さんは虫歯のバイキンが体じゅうにまわって、今日どこかへ運ばれていったよ」なんて話をきく。夜がきて、父親が迎えにくる。言葉もなく。スーパーへ寄って鍋焼きうどんを買って、誰もいない家にもどる。ぼんやりして寝て、また朝がきて。

# 114 枠組と残余

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【 NO STOP CITY by Archizoom 】
https://www.google.co.jp/search?q=no+stop+city+archizoom&tbm=isch

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ちょっと前に、大企業の営業員のあいだで「ペルソナマーケティング」って手法がはやった。
ある商品を作るとき、それを売る相手について、「武蔵野市在住」「30歳」「女性」「化粧品の販売員」みたいに、いくつかのパラメータで限定して、その人の喜びそうなものを作るという手法。
需要者の擬人化。
人々の嗜好が細かくわかれた時代に、各人に合わせた商品を作ろうって狙いだが、ちょっと雑なようにも思う。
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もっと言うと、社会全体で「このポジションにいる典型的なキャラ」というペルソナを押しつけあっている感じがする。
ちょっと風変わりな教師や店員や医師やらが出てくると、ヒステリックに怒りだす人。
彼ら彼女らは、その場で見ず知らずの人と接触するときの労力を節約しているように思えるが、それは同時に、人々の独創性や面白味、意外性を毀損している。
これは地方都市の郊外の(表面的には)不気味なほど何もない感じにも通じる。
人を既存の枠にとじこめる作用は、古今東西おなじだろうといえばそうなのだが、枠からはみ出す残余もまた、いつの時代にもどこにでもあって、それは芸とか旅とか空想といったほうへ流れ出す。
今はそういう残余がニュータウンのどこかではなく、インターネットに浸み出している感じがする。

#113 村人と世界

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【 通称「ツナミ」と呼ばれる韓国ソウル市新庁舎のデザインが問題に 】
http://alfalfalfa.com/archives/6912951.html

これはすごいブビブビズム*1
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たとえば韓国でのナムジュン・パイクの扱いをみると、いろいろ考えさせられる。
彼は世界最高の韓国人芸術家か、それとも苦しい時期に韓国を出た悪徳資本家か。
国外の人からしたら、たぶん「韓国出身の世界的芸術家」になるのだが、国内の人にとって、この言い方は難しい。
そこには、村人の視点と世界的な視点の差がある。
今、彼のつくった主要な作品は、国立現代美術館というところにある。
ソウルの町はずれの丘の上に巨大な空間がつくられて、伝説の王の墓みたいに祀られている。
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ある町に住んでいる2種類の人々について。
「素朴な村人」があんまり多いと、あたたかく受け入れてもらえるけれど話が通じない。
「ひねくれた都会人」があんまり多いと、冷笑的な批判ばかりになる。
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この話に関係して。
○○さんというジャズピアニストとの関わり方がよくわからない。
彼女は、うちのオヤジの上司の娘さんで、しかも事務所が火事になったときの同僚だから、○○さんとうちのオヤジは今でも仲が良くて、何度かお宅にあがって彼女のピアノを聴かせてもらったことがある。
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とはいえ演奏について、おれはいいとは思わず。
まぁ技術はあると思うし、彼女がお堅い地元ピアノ講師の連中から「基礎がない!」「ミスタッチが多い!」「リズムが不正確だ!」って散々けなされてもメゲずにジャズの道にすすみ、自分の居場所をつくったことは知っていて、それはすごいと思うけれど。
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村人の視点と世界的な視点を、どう重ねあわせていったらいいものか。
というか、「世界的な視点」というものが今やなんだかわからなくなってきている。
伝統的には、それは大都会の権威筋からの評価だった。
新聞の記事。テレビのニュース。雑誌の評論。
20世紀にそれはマスメディアを通して世界中にひろく浸透した。
ところが、たとえば Asobi Seksu ってバンドの人がこないだ I knew NYC has been getting less cool by the second....Goodbye Lou Reed. って呟いていたように、大都会の威光が昨今かげりを見せつつある。
たぶん、これにはインターネットと経済活動の多極化が関わっている。
個人的には、スーザン・ソンタグが交通整理していたころのNYとか、浅田彰が交通整理していたころの京都とか、「浜崎あゆみってアーティストは実は12人組(衣装係、化粧係、時計係..)なの!」って言ってたころの東京とか、そういう胡散臭い大都会の魅力というものは、よくわかっているつもりだが。
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一方で、新しいメディアは、新しい村 alternative commune の建設にかかわっている。
Facebookとか2ちゃんねるとか、Pitchforkとか、ニコニコ動画とか、どこ見てもそうだ。
これからの世界というものは、さまざまな村人の視点が交錯する接点に、かろうじて出現するようなものになるのだろうか。

*1:「ブビブビズム」は造語。韓国のクラブでは、男が知らない女のうしろに急にまとわりつく「ブビブビ行為」がよく見られるが、そこに典型的にあらわれている、「自分の情熱のままに動き、他の人の感情がわからない」という人間のあり方を指す。