#1 注意散漫

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散らかった部屋...
夢遊病者の徘徊...
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毎日いろんな場所で、たくさんの言葉が紡がれている。
紡がれた言葉たちは、新聞やネットの記事になったり、本になったり、酒場のお喋りになったり。
ひとまとまりの実体として、言葉は一応それなりの体裁を整えて次々と世に送り出されている。
言葉の濁流...甲子園球児*1のように。
ここでいう「言葉」を「イメージ」に拡張しても同じだろう。
映画、テレビ、ネットの動画、絵画、個展、路上パフォーマンス、フリーマーケット...
イメージの氾濫...
そういうものを日々のみこんで生きている。
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では、しかし、それならば、私の思考はどうしてこんなにモヤモヤしているのか?
思考の道具がさだまらない感じがする。
たとえるなら、家を修理するのに金槌を手にした瞬間、その道具が溶けるような。
仕方ないから、かわりに木槌を手にしても、それもまた溶けるような。
木槌を手にした指先もからまって溶けて...
実体というのはどこにあるんだ??
「xx理論はもう終わった」みたいな脱構築的な思考をやりつづけると、認識というものが立ち上がってくれなくなる。
何かを語るための足場がないような気になる。
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ここから抜け出すひとつの道としては、保守主義者になること。聴覚表現ならモーツァルトとベートーベンがその中心、視覚表現ならミケランジェロとダビンチがその中心、言語表現なら新約聖書がその中心、社会規範なら日本の実定法がその中心、科学理論なら実験と統計がその中心、と定めて、そこから一歩も動かないこと。
信仰に帰依するタイプ。
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あるいは、すべてを自分の経験に即して考えること。家族のアナロジーで世界を語りつくすこと。
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他の方法が...

*1:甲子園球児は、公式戦の記録というデータ・セットとして定量的に比較される。しかし彼らは同時に、データに乗らない何かとして人々によって解釈される。「記録より記憶」って合言葉がこれを示している。これと同様に、言葉は、言葉を箱詰めしたものが売上or読者数という1次元のデータ・セットとして定量的に比較される。しかしそれらは同時に、データに乗らない何かとして人々によって解釈される。