「わかったつもり」を学校教育はどう解消するか?

「分かったつもり」のしくみを探る―バフチンおよびヴィゴツキー理論の観点から

「分かったつもり」のしくみを探る―バフチンおよびヴィゴツキー理論の観点から

0
人がものをわかるようになるのは困難で奇跡的なことだ。どういうとき人はものをわかるようになるのか?というのがそもそも私の関心だった。
1
田島充士『「分かったつもり」のしくみを探る-バフチンおよびヴィゴツキー理論の観点から』って本というか教育学の論文をたちよみした。小学生の勉強を観察すると、わかっているようで実はあんまよくわかっていない場合が多いらしい。特に小学生にわかりづらいのは、暮らしの知恵と科学理論が食いちがうとき。たとえば電気とは何か。小学生は、よくわからないけれど先生がニコニコしてるからこちらが正解というふうに答えを出すことが多いようだ。
2
これでは何かものがわかったことにはならないのではないか?きちんとものがわかるようにするにはどうしたらいいか?という話が続く。
3
論者はここからミハイル・バフチンという20世紀のロシア文学者・哲学者を持ち出す。彼が参照するのは「カーニバル」という概念。
「中世ヨーロッパのカーニバルではキリストを罵倒してもよかったし何でもアリだった。面白い考えはそこから生まれたんだ」と論じた『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』という本があって、ここから着想を得たようだ。
つまり、教室で無礼講をやってみよう、と。
4
これにレフ・ヴィゴツキーという心理学者の説が接ぎ木される。ヴィゴツキーは、人が何かを理解するとき、「まったく間違ったふうに考えている状態-先生の言ったことを鵜呑みにする状態-自分の考えを思いつく状態」*1の3つの連続的な状態を左から右に動く、と言ったらしい。私はヴィゴツキーって学者を初めて知ったから、よくわからないが。
5
どうしたら生徒は左から右に動くか?バフチンの話とつなげて、教室をカーニバルの場にしたらどうか。
いつもは先生が生徒にものを教えるけれど、たまには立場を入れ替えて、生徒が先生に話をする。そのとき先生が生徒に質問をしたり(演繹的・帰納的な)、言葉に詰まったら上手に話を補ったり。あるいは生徒が生徒にものを教えるのもいい。
私がなんとなく思い出したのは、野口悠紀雄という人で、昔の日比谷高校では歴史の授業を基本的に生徒の発表と講評のみで進めていたと『超勉強法』って本に書いていた。
6
ひとついいこと知った。
だが、ここで変な話をはさむと、「誰かが何かを知っている状態」を「誰かが何かを因果論で説明できる状態」と定義してしまうと、究極的には、「論理的に完全に基礎づけられた知識はあるのか?」という、ゲーデルの話に行っちゃうように思った。知識の哲学・認識論の迷宮へ…

*1:取り留めのない話をしてみる。「間違える」って日本語の日常語は、「間を違える」、つまり「時間とか空間とか、近づいたり遠ざかったりする、複数の事柄の関係をたがえている」ということを意味する。ここでの「間」とは、「自分(生徒)と先生の2者の『間』」でもあるし、「自分(生徒)と周囲の生徒と先生の3者の『間』」でもあるし、「科学理論と自然現象の2者の間」でもあるし...人と人との間合いが「間違っている」と感じられる場面は、たとえば家族団欒にテレビを見ていてエッチな場面がうつったとき、みんな黙りこんでしまう、とか。学校の科学教室も、科学理論と自然現象の1対1の対決の場には、なかなかなりづらいと思う。