道具的理性ここに極まる

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道具的理性*1ここに極まる、という実例はいたるところにあるが、先日会ったバイオテクノロジ専攻のプログラマをしている男の子との話は、ひどいものだった。
話の流れから、私がパースの記号論に注目してみたら?と言ったら、彼はその名を聞いたことがなく、すぐに内容の要約を求めてきた。込み入った話だからすぐには説明できないが「アブダクション」という概念が鍵になっていて、それは「アテンション」という日常語に似ているということを伝えたら、数分後に「アテンション理論によると」からはじまる長大な屁理屈を、自分のつまらないビジネスモデルを正当化するための屁理屈をこねはじめた。ほかにも「エントロピーの増大」って物理法則を安易に人間社会の話につなげるなど、考えの道筋があまりにも粗雑で、しかも押し付けがましくて、話しているうちにひどく疲れた。彼の前から一刻も早く立ち去りたいと思った。
「プログラミングの基本はコピー&ペーストである」と言った彼はおそらく、これまで、そのへんに転がっている話をサクッとパクッて生きてきたのだろう。相互に食いちがう話を突き合わせたり、別の立場から同じことを考えてみたりするような繊細な知性は持ち合わせず、雑多な話や理論体系を道具として、自分の思考や行動の原則にあてはめて、当座しのぎの役に立てて、飽きたらポイと捨てて、これからもずっと自転車操業のようにして生きていくのだろう*2ハイパーリンク的な知性。そんな彼には「人間とは、等質的時間における有限な生という制約条件下で、道具的理性を使用した最適化行動をおこなう要素である」という人間機械論のような定義がふさわしい。
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こういう人々はきっと多いだろうけれど、ある意味体系に別の意味体系をぶつけることによる視差のようなものには魅力を感じる。俗っぽい笑いなんかにしても、結局この視差によるものだと思う。道具的ではない理性のはたらき。

*1:あらゆる理性・思考・理論といったものは、何かの目的を果たす実用の手段として存在するし、そうあるべき、という考え。

*2:ここでふと、人間だれしもそんなものでは?という声がきこえる。