夢のカリフォルニア


僕は君たちに武器を配りたい

僕は君たちに武器を配りたい

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日本のカリフォルニアみたいな町で人々を観察して、LA→上海→名古屋とわたった旧友と話して、あらゆる理論的思考のうち実践的に・普遍的に最も役立つのは戦略論・組織論*1だということは、ハッキリわかった。企業経営者でも、勤め人でも、うまくいっている人なら、中卒でも戦略論・組織論*2をまなんでいる。または経験則としてそれをわかっている。

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一方、ある種の趣味・文化・教養・芸術...のようなものは、それ自体としておもしろいけれど、コミュニケイションの道具という感じもつよい。つまり、誰かと「いい感じ」を伝え合うことによって楽しくなる。*3私の思う「いい感じ」が誰にも何も伝わらないとき、1人でそこに興味の焦点を合わせつづけることはむずかしいだろう。*4
たとえば、今ここで鳴っている「いい音」について、歌や曲を作っている人は、わかる人にはみんな「いい音」とわかるはずの音として認識しているし、その音が鳴っている現場にわざわざ出掛けて立ち会っている人のあいだでは、みんな「いい音をきいた」というふうに感じている*5のだが、ヒット・チャートを見ても、彼や彼らが思う「いい音」ほど売れているわけではない。ここに、大衆社会論のようなものをぶつけても、気休めにはなるけれど、索漠とした感じはかわらない。「いい音」なんて社会的に構成されたもので、そんなの相対化可能だ*6、と言われてしまえば、それまでだ。あらゆる価値体系を相対化する立場をもっと進めたら、「いい音」について複数の価値体系を比較して相対化するだけでなく、「いい音」と「しょぼい音」を差別しない、音なんてどうでもいいという価値体系についても、複数の価値体系のなかの1つとして相対化してしまうことができる。*7
ここでも、実践的に・普遍的に、他の価値体系をすべて相対化してしまっても、ただひとつ意味がある価値体系は「それで食えるか否か」ということで、それは戦略論・組織論によって分析し、食うための手段を編み出すことができる。*8
3
「いい感じ」についての感じ方の合う人が1人もいない環境でも、戦略論・組織論をつかえば上手に立ち回ることができる。そうやって社会とうまく渡りあうことができれば、人脈なり設備なり資金なり情報なり*9、自分がこれぞ理想的と思うような環境を作るための資源を獲ることができる。やりたいことは、資源を充分に獲得しながら、それを投入して、やればいい。
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とはいえ、こういう考えには索漠とした戦々恐々とした感じがつよい。
やってることが野良猫とあまり変わらん。
力によって自然に立ち向かう、という感じがする。*10

*1:端的にいえば、戦略論は敵と戦う技術。組織論は友を自分の思いどおりに動かす技術。

*2:戦略論を数理的に洗練させればゲーム理論になるし、組織論を数理的に洗練させればネットワーク理論になる。

*3:楽器をもちよってセッションするとかライブするとか。絵を描いて展覧会するとか。話をかいてみんなで読むとか。

*4:感覚的な、あるいは言葉をかわすような(つまり知覚的な)楽しみには、気の合う人が複数あつまったほうが楽しくなる、という性質があり、経験的に、人のあつまる場が自慢大会になることは多く、そのような場でスノビズムが発生する。

*5:「いい音」の感じについて、別の体系をもっている人々は、別の音楽シーン(システムと呼んでもいいかな?)をつくるのだろう。

*6:相対主義について、もっと深い理論的考察があるはず。

*7:たとえば、音が鳴ってて騒いで踊ってエッチな気分になれれば充分という価値体系。商店のなかで大きな音で歌をながすことで雑音をまぎらわすことができれば充分という価値体系。こうした体系のなかでは、音は、何か他の目的のための手段として扱われる。「いい音」それ自体は目的ではない。

*8:「つながりこそが、ボクらの武器。」というアニメの宣伝文句があった。

*9:「人」「モノ」「金」「情報」の4つが経営戦略論において資源とよばれている。

*10:哲学での、自然主義反自然主義の論争が参考になると思う。