必然と偶然


1
ここで生きていることと、よそで生きていることに何のちがいがあるだろう、って少し考えてみた。
2
私の実家のはす向かいのアッちゃんが自宅の蔵を改装して建築事務所をひらいた。
大岡山やオランダで修行を重ねてきたかいもあるのか、この町にはめずらしい洒脱な店がまえで、彼はこれから地元に根ざして、よいものを作っていくのだろう。
深夜0時をすぎても煌々とあかりがついている。
それは、とてもよいことだと思う。
3
一方で、あまりにも統計的な陰鬱な考え方をしてしまえば、あたらしい建築の需要は任意の空間である確率で発生するのだから、彼が地元でいくらがんばったとしても、世界の建築のうちに占める彼の仕事の量は、世界全体からしたら、微々たるものだ。
ましてや、マスメディアで一部のスターがまつりあげられるメディア環境のなかでは、いなかの住宅建築を手がけたって、知名度の面で大きな存在にはなりえない。
4
この状況で、彼がその道をえらんだのは必然なのだろう。
この感じが、私にはどうもわからない。
これは、「土地の固有性」「ある人がそこで生きることの必然性」というようなことに関わっていて、それは建築にちかい論題*1でもあるから、彼としゃべってみたい気もするけれど、彼が「ここが生まれ育った町だから自明」というような素朴な志でやっているのならば、私はだまっていたほうがいいように思う。
5
ここで生きていることと、よそで生きていることには、何のちがいがあるだろう?って少し考えてみた。
たとえば、私の幼馴染みでこの町にいた女の子は、幼稚園の先生をしている。彼女は近所の公立高校に進学し、そこで出会った彼氏と結婚して、今はここから30kmほど離れた、山林を開発した新興住宅街に住んでいる。
彼女がその町で生きていることには、どんな必然性があるのだろう?
やっぱり、「近所の高校で出会った彼氏」と結婚してつくった家、というところにその根源があるのだろう。
誰かがそこにいることの必然性は、ひとつ、結婚のようなものに関わっている。
6
その対極に、いまの私のように、生きていることにも誰かを好きになることにも何の必然性もない、単に「瞬間恋愛」のようなものだけがあるって状態がある。
「誰かをまともに好きになる」みたいなことって、特にそれが独占欲のようなものを含む感情のたかまりに至ることって、私のばあい、たぶん10代で終わってる。
そのころ、いくつかの恋愛が不毛に終わり、恋愛小説を読みふけって、以降は、現実が空想物語の反復・事例として存在しているような感じがしている。
7
たとえば恋愛中のカップルや結婚している夫婦にわく親近感みたいなものと、生きていることの必然性のようなものは、どんな関係があるだろう?

*1:たぶん写真論にも通じる。