ことば

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海獣の子供 (5) (IKKI COMIX)

海獣の子供 (5) (IKKI COMIX)

少女:こんな所で何をしてるの?
老人:僕は以前この場所で、とても大切な約束をしたんだ。
少女:誰と、約束したの。
老人:この場所と。ここの光、木々や草、岩や虫たち。全ての音。...ここの全部と。
少女:どんな約束をしたの?
老人:...思い出せないんだ。僕は長い旅をしていて、偶然この場所に迷い出た。
五十嵐大介海獣の子供 5』

2
たとえば、町の図書館のようなところに何人かあつまって、「水」ということばから思ったことをひとりずつ話す、あつまりって、どうだろう。*1
人類学の手法に、こういうのあるのかなあ...
3
「正統的な理論家たちの活動は、人々に言葉をあたえるのではなく、逆に、人々から言葉を奪うほうに作用しているのでは?」と前に書いた。*2
(http://d.hatena.ne.jp/soraniukabuniji/20120731)
今ここには「空間の荒廃」と「生活の失調」があると感じられる。
ぼくらはことばを失っているという感じがする。*3

*1:「コミュニティ」「絆」って言葉が、震災後からずっと使われていて、それに、かなりの違和感がある。今までばらばらに住んでいた人々のあいだにつながりをつくるには、いきなり政治・経済・社会政策などの具体的な話からはじめたら議論は紛糾してしまう。たぶん感覚の共有から入るのが筋だと思う。「コミュニティ」「絆」って言葉が建築の界隈でこのごろよく使われているのを目にするが、ちょっと乱暴だなあと思う。例を挙げてみよう。このあいだ山本理顕『地域社会圏主義』って本を立ち読みした。山本は、日本は借家と持家の関係が世界的にみておかしい、人々が孤立しすぎている、それなら共同で住む形があればどう?って語りかけている。発想の出発点はわるくないのだが、そこから「500人単位の今までよりプライバシーの少ない共同住宅・商店を構成単位とする団地をつくろう」など、社会工学的な、顔のない人形をあやつる工学という感じが強い話に飛躍して、ちょっと不気味だった。この本の対談のなかで、上野千鶴子が「人づきあいってめんどうよー」と言っていたのが、唯一の救いだった。

*2:私のばあい、何か小さなひらめきのようなものがまず見つかって、そのあとに、何かを語るのにふさわしい言葉をさがして人の話をよむ。だから細密な定義や文脈について実はよくわからないまま生きていて、正統的な理論家にはなりえないなあと思う。

*3:いろんな人の書いたブログをまとめた「ブロゴス」や「シノドス」のようなサイトについて、私は、あれは輿論の形成には役立たないだろうと思う。言いっぱなしの投稿が多くて、ぼやきで終わりがちな感じがする。言語体系が閉じている、というか。