仕事のくだらなさとの戦い

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やたらと暑い上に、数日前に食ったラーメンの茹で汁をほっておいたのが発酵してついにバイオハザード状態に突入した部屋から逃げるように町へゆき、本屋で立ち読み。なんとなく盛り上がって、30冊もながしよみしてしまった。

フィンランドの教育は世界いちぃぃぃ!」みたいな話とか、その逆の話とか、一服の清涼感があった。初等教育は僕にはわけわからんわ。
2
仕事のくだらなさについて書いてる本を何冊か、ながしよみした。
3
仕事のくだらなさとの戦い (そもそも双書)

仕事のくだらなさとの戦い (そもそも双書)

マルクス主義者のおじいさん教授が、今の人々がやる仕事のくだらなさについて書いていた。「君の自由を金で売ることが仕事になってないか?そしてもう君の手許には自由がまったくないのでは?」って、古典的だけど、ある意味ただしい話。然り。たとえば「どれだけ自由な思考をするか?」ってことを「面白い-くだらない」の基準にするなら、世間にある大半の仕事はくだらない。くだらない仕事はやめちまおう。しかし、みんながこの価値観でうごくと、肉体労働(たとえば下水道掃除)のような、社会にとって最高に必要だが、働いたあとには難しい本を読んだり難しいこと考えたりする自由なんてなくなるような仕事をやる人が、まったくいなくなる。つまり実現可能性がない、あるいは肉体労働者の存在を無視したマルクス主義理論になっている。なんという空論だ!
4
魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

マルクス主義者のおじさん教授が、今の人々がやる仕事のくだらなさが世界的に蔓延していることについて書いていた。「海外ではネグリもハートも反対の声をあげています」って話。この世代になると、フランス語かイタリア語ができる(だけの)人がマルクス主義を担っていて、相変わらず「デモをしよう」とか言っている。空論だ。このような「海外では誰それも反対の声をあげています」って話は、反対にいたる論証過程に見るべきものがなくて、かつ、海外と日本で社会構造がほぼ同じであれば、「旅籠町では熊さんも八っつぁんもカンカンに怒っておられる」って話と同じ。結局、制度をどう変えようが金の配分をどう変えようが、「世間にある大半の仕事はくだらない」ってのは不変である。そこから始めよう。とはいえ、「3」に書いたように、くだらないからといって、やめちまうわけにはいかない。ではどうしたら面白くなるか?「仕事のなかで人としゃべったり何かしたりして、それが楽しい」ってのが、仕事のくだらなさから逃れる、おそらく唯一の道だろう。世の多くの会社が終身雇用を前提としていた30年前なら、勤め人は会社の飲み会や慰安旅行のようなもので、楽しいと思うことができたのだろうけれど、今は別の形がほしい。30年前にしても、自営業者なら、「自分の仕事に近所のおっちゃんが金を払ってくれてうれしい」「自分の仕事に近所のおばさんがねぎらいの言葉をかけてくれてうれしい」とか、そういうので楽しいと思うことができたのだろう。今は別の形がほしい。
5
解 (Psycho Critique)

解 (Psycho Critique)

さて、この件について考えるときがきた。
彼が捕まったとき、いろんな評論家があれこれ言ったけれど、本人の話をきく前に精神病だの社会の闇だのワーキングプアだの青森の県民性だのオタクはキモイだの、あれこれ言うのは、早とちりだったと思う。むろん、これが本人の話ではないという可能性はあるし、本人の話をきいた時点で事態の全容が完全にわかる、ということもないが。
さて。
マルクス主義者ではない被告人が、今の人々がやる仕事のくだらなさを体感したことについて書いていた。しかも「アキバ趣味」も同様にくだらないって話。「孤独感」という言葉を、彼は何度も使っていた。これについて、今のところ、私は、「人生のなかで人としゃべったり何かしたりして、心をかよいあわせることが楽しい」ってのが、人生のくだらなさから逃れる、おそらく唯一の道だと思っている。そしてその「人としゃべったり何かしたり」ってところに、仕事とか文学とか芸術とかスポーツとかエクストリームスポーツとか、与太話とか、いろんなものが入ってきたら、理想的かな、と思う。*1

*1:この「人生のくだらなさ」という問題について、この本に書いてあるような機械論的な・システム論的な・ギャルゲの分岐のような、つまり「神を前提としない決定論」のような思考は、この社会をひろく覆っていて、しかし、それによって問題は解決しないのではないか?って疑問の萌芽がある。神を信じるか、あるいは決定論をやめるか。ちょっと勉強不足だが。