歴史という名の雑貨店

1
歴史とは精密な記憶なのか。
精密な記憶とは何か。
たとえば、関ヶ原の戦いに従軍した兵ひとりひとりの名と出身地と性格のようなものを把握することは、誰にできるのか?
私の知っている女の子が、2008年に宝塚歌劇団星組に在籍していた女優の名前と経歴と特徴をすべておぼえていて、感心したことがあるが、精密な記憶とは、このようなもので、彼女は「2008年の宝塚歌劇団星組の歴史」を書くことができる。
いや、まだ足りないかもしれない。
日々の行動を細かにかいていったら、歴史はどこまでも精密になりうる。
しかし完全な史料は残っていない。
2
歴史というものに対する、ある違和感というか「難しいなあ」と思うことについて。
俗流歴史のあさましさは、雑貨店のあさましさと同根だと思う。
店主あるいは購買担当者の「かわいい」を基準に世界中からあつめられた品物。
趣味のいい雑貨屋に「世界じゅうのかわいい品物」が並んでいるのをみると、私は、根っこを刈り取られた切り花を連想する。
それは「ロマンの水源」として機能する。
3
では、「俗流」ではない歴史はどんな方法論をとるのだろう?
史料批判
そもそも「今ある文書を並べ替える」という方法で、「正しい」歴史にたどりつくことはできるのだろうか。
たとえば、政治史において、負けた側の文書は消失していることが多い。
勝った側の文書だけから歴史を組み立てると、あの悪名高い「勝者の歴史」になってしまう。
4
鈴木眞哉NHK歴史番組を斬る』という本を読んだ。
歴史愛好家や科学愛好家について私のもっている、ある種の違和感について、いくつかの着想を得た。
ここでいう歴史愛好家とは、たとえばNHK歴史ドラマをみて奮い立つような人たちを指す。科学愛好家とは、たとえば金環日食を見て騒いでいた人たちを指す。
ただし、郷土史を仔細に調べる人たちや、新しい小惑星を探して天体望遠鏡をじっくり見ている人たちのような、「愛好家」というより「アマチュア研究者」というほうが適切な人たちは、ここでの定義から外す。
こう考えていくと、愛好家にとっての歴史や科学とは、過去や自然という謎めいた対象を理解するための試みではなく、歴史や科学を、今ここに生きている自分に引き寄せて、自分のこの生活について、「素晴らしい」「伝統に根ざしている」「奇跡的な」「一回きりのものである」...という心境に浸りたい人のためのロマンチックな道具なのだ、とわかる。
ロマンチックな幻想は、しばしば現実と乖離する。
新しい史料の発見や既存の史料の再解釈によって、歴史上の人物に対する評価が変わることはありうるけれど、一度だれかに憧れた人は、その変更を認めたくない。
「彼はひどい卑劣漢だったって?いやよ。誰が何と言おうと、あたしは彼を守りぬくわ!」
歴史でも科学でも、人の活動というのは、すべて、人が何かを好きになったり興味を持ったりすることからはじまる。
ロマンのない歴史や科学なんて、誰がやるというのか!
歴史や科学のロマンと、事実の探究は、しばしば対立する。
人の快感をもとにすると、事実よりロマンを重視することになる。
そう考えると、現代科学は特殊なものだ。
「実用性」という別の、工学的な必要性と、工学的な機械がしなやかに動くこと自体のロマンを背景にして、ロマンより事実を重視する仕組みを作った。
では、「事実に根ざしたロマンティックな歴史」とはどういうものか?
これは難題だ。
5
この意味で、アナール派ってのは、「客観的な」歴史をめざそうとした活動だったのかもしれない。
人々のおかれていた物質的な環境を示すことで、人々の生活を再現することができる。