悲しみの愛を見せる

紅白のセットリストが出た。
実家のことを思い出した。
韓国アイドルにうちわ振ってる母、大渋滞のなか豊川稲荷法多山に車を出して、うまくもねえ串だんご食いながらテレビに渋滞の話が出て喜んでるB1グランプリな父、全身EXILE男がベビーカー押してるジャスコ、など。
これは、1980年代以降の日本の大衆とよばれる人々の振る舞いとしては、たぶん平凡な光景だろう。
父や母が思慮深い科学者か教育者か宗教家か芸術家か、何かしら壮大な世界観を構想しているなんていうほうが珍しいと思う。
カツカツな生活。
しかし、ここで少し普遍的なことを考えると、すぐに孤独と絶望がおそってくる。
ふと「人は言語をどうやって理解するのだろう?」とか「人が神のような超越的なものを信じる根拠はどこにあるのだろう?」とか「禅の立場から人間について考えたら何がわかるだろう?」とか、考えはじめると、ほとんど話せる人がいないことがわかる。
ここには誰もいないではないか!
分析哲学・科学哲学ではまともな答えが出ないし。
神秘主義にはしって、妙な儀式をやるのも、なんか変だし。
終末思想にはしって、大量破壊行為をやるのも、なんか変だし。
要素還元主義にはしって、「余計なこと考えるのは単なる脳内物質の分泌の異常」ということで、精神科にかよって薬物をやるのも、なんか変だし。