知識は情報ではない。

(大事なこと思いついた!とか勝手に思ってる。かなりわかりにくくてごめんなさい。)
そいえば、僕はギャルソンの服を持ってないな、ということに気づいた。
まず青山まで出掛けるのがだるいし、年に何度か行っても、特別なケミストリーを感じられる服がなくて、ハイ・ファッションはよくわかんないな、と思ってる。
基本的に、あのブランドへの僕のイメージは、既存の服飾体系=記号を換骨奪胎する記号の遊戯、というものでしかないから、そういうのがお好みなら、ディズニーランドにでも行けばよかろう。記号があちこち、たくさん氾濫しているぜ。
そんなことを思う。
一方、吉本隆明コム・デ・ギャルソンを着る。
消費社会に入った時期の日本の批評を先導した*1彼は、まぁ、何というか、ファッショナブルだったのだろう。

翻って現在、批評家がファッショナブルだと感じられることは全然ない。
ファッショナブルですらない知識は、何の意味があるのだろうか。
オタク?
知識とは、たくさんの情報のなかから見出された意味ある事柄の集まりだ。
とすると、すぐれた知識をもつ人は「意味ある事柄」を見出すことの上手な人、ということになる。
もしかしたらそれは、創発という概念にたとえられるかもしれない。

*1:そのように僕は理解している・・・