文化現象の遠近感

こんなことをするのなら、アカデミズムを離れることになるかもしれないけれど、餓え死にしない限り、それでもよくて、個人的な関心は、やはり、「ある種の文化現象の分析」にある。
餓え死にしそうなら、イタリア文学の翻訳でもやります。
それまた餓え死にしそうな選択だが、別に、「お嫁さん」とか「自家用車」とか「庭付き一戸建て」とか、そういったものを求める私有意識は一切無いので、まぁ、いいや、と。
どうしてもそれを望むのなら、不安産業なり資源産業なり政府なり金融業なり、あこぎなところに、自分が売れそうならアプライしますわな。
・・・どうでもいいやって思う。でもあこぎなことは、したくない。
だって、「文化的懸隔」という要素を考慮しなければ、色々楽しめることはあるのだろうけれど、そういうの無理だからねぇ。
さしあたって、定職が見つかったらイタリア語の読書会を再開しようと思っている。
あ、イタリア語の読書会は新規参加者募集中でありんすよ。
印欧語族を少しでもかじった人なら、たぶん、基礎文法は30時間くらいで修得できるので。
こないだまでは、名著なのに名訳がなかったダンテの『新生』を読んでいますた。
まぁ、その辺は措いて、「文化現象の遠近感」について、便宜的にデカルト座標のアナロジーを織り交ぜながら説明してみると、現状、人々は自分の価値観を基準にして、それと同じ/違う/ものすごく違う、というような分類を行って、自分に合う趣味を見つけて、そこを行動圏としているのだろうけれど、もう少し上質な、それを俯瞰するような構造を探してみたい。
ただし、それは、たぶん、単なるデカルト座標へのマッピングとは違う。
相関とかグレンジャー因果性とか社会階層とか、色々使える道具はありそうだが、そういった「すぐ動いてしまう構造」に頼るのではなく、より安定的な構造を見出したいのだ。
動学的分析・・・時間?
・・・
数学と物理学をこれまで遠ざけてきたのは、まぁ、失態だった。
これらは認識のためのハイウェイになってくれるから。