・ハイ・フィデリティ。
来週ハ溝口健二特集、その次はコレ見ましょうかね。
ハイ・フィデリティ 特別版 [DVD]
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・A SOCIAL BOMB
Economist読んでたらギリシャの話が出てきたので、少し調べてみた。
フランス語は読めないので、日本語にて。
(http://www.diplo.jp/articles09/0901.html)
=○=
石野卓球 / stereo nights
あるブログに興味深い言及があったので、長くなっちゃうが、引用をば。

 文学研究の世界には、いわゆる「都市論」と呼ばれるものが存在するし、建築学の世界では「建築意匠論」というものが存在するが、これまでに、テレビアニメにおける「都市」について総論的に言及したテキストを残念ながら、わたしは見かけたことがない。

 あったとしても、せいぜい背景や美術や3DCG担当者のインタビュー記事であり、それはテレビアニメにおける「都市というもの」の表象について、作品論的に何事かを気付かせてくれる類のものではなかった。

 かつてわたしは友人と一緒に、空気系マルチヒロイズムアニメの極北をなす『苺ましまろ』を見ていたのだが、彼はそのとき、この「世界に入りたい」と言って絶賛したが、「この街に住みたい」と言って絶賛しなかったのは何故だろうか。

 第3シーズンの放送がいよいよ近づいている『ARIA』シリーズは佐藤順一監督による空気系マルチヒロイズム型アニメの代表作だが、このアニメにおけるヴェネチアを模倣したとされる「都市」の重要性についてはよくよく考えてみなければならないだろう。この作品は物語の舞台である「ネオ・ヴェネチア」という都市が「ネオ・ヴェネチア」でなければ成立しないからである。

 にもかかわらず、『苺ましまろ』の舞台は『みなみけ』の舞台と交換してもおそらく成立するのは何故だろう。

 にもかかわらず、『ef -a tale of memories』の舞台と『CLANNAD -クラナド-』の舞台を交換すると物語が成立しないのは何故だろう。

 「ガンダム」シリーズにおける都市は、それらが放送された時代に応じてどのような変容を表象のレヴェルで被っているのだろうか。

 「宮崎アニメ」における都市表象に共通しているものと異なるものとは何だろう。

 いわゆるアニメにおける「未来都市」の表象は歴史的にどのように変化してきたのだろう。

 テレビアニメ『BLACK LAGOON』の魅力を担っているのは、ヴァラエティに富んだ登場人物たちではなく、銃撃戦でもなく、実は「ロアナプラ」という架空の街だったという可能性は全くないのだろうか。

 『ひぐらしのなく頃に』シリーズの舞台が架空の「雛見沢村」でなければならなかった理由は何だろう。閉鎖的な村落共同体的都市空間など、誕生してもう直ぐ半世紀を迎えようとしているアニメの歴史においてはこれまでいくらでも存在したはずである。にもかかわらず、そこは「雛見沢村」でなければならなかった。何故だろう。

 アニメ史上最も美しい街や都市の名前をわたしは知らない。これは驚くべきことである。

 映画を観たり小説を読んだりしていて、この街に住んでみたいと思うことはあるのに、何故、ときには実在する街や都市をモデルにしたアニメを見ても、その街に住みたいとは思わないのだろう。この問いと、いわゆる「聖地巡礼」というアニメファンの行為の間にはどのような関係があるのだろうか。

 何故、『らき☆すた』においては実在する都市や街を表象のレヴェルでパロディー化する必要があるのだろう。『らき☆すた』というテレビアニメは、実は極めて都市表象に寄生したアニメではないだろうか?もしも、登場人物が全く同じで、舞台が山口県のある都市のパロディーだったとしたら、このテレビアニメの評価は全く変わらないだろうか。おそらく、大きく変わるだろう。では、このアニメの評価を大きく左右しているのは表象された都市や街なのではなかろうか。にもかかわらず、『らき☆すた』における都市表象がほとんど問題にされないのは何故だろう。

 この文章を読んでくれている人はちょっと立ち止まって考えて欲しいのだが、もし作中のキャラクターが登場しないと仮定した場合、自分が最も住んでみたいと思うアニメにおいて表象された都市はどの都市だろうか。
(http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-126.html)