オトナというフィクション。

春、大阪に住んでもいいんだけどな。パリではなくて。
1泊3000円程度で泊まれる安宿の空きを調べてみたら、クリシーにしかないようだ。
危ないかもしれないが面白いかもしれない。

海にむかう水が目のまえを流れていさえすれば、どんな国のどんな街であろうと、自分のいる場所は河岸と呼ばれていいはずだ、と彼は思っていた。
堀江敏幸『河岸忘日抄』

飯田橋の河岸。路上生活をするなら、あの場所からはじめたい。
周囲には瀟洒なビルディングが立ちならび、高速道路に覆われて無残にも生活排水の流れ込むだけのどぶ川のほとりとなってしまった、川沿いの埃の溜まった一角に、江戸の昔の廻船問屋の名に由来する河岸(かし)というのがあって、そこから海までつながる定期航路が開設されている、という錯覚におそわれている・・・

六月七日の六郷土手で・・・

発展や衰退とは、歴史的経路依存性をもつもの。
たとえばパリ最初の街がセーヌ川のもうちょっと下流に開けたならば、歴史は全く違うものになっていたのだろう。

=○=
歴史について考えると、いつも暗い気持ちになる。
自分の背後には後ろめたくて巨大な空白のみがあるような気がする。
そいえば先日『菊と刀』を読んでいたら日本人の死生観についての特徴が載っていて、興味深かった。
「近い祖先の供養を手厚くおこなう」のが特徴的なんだそうだ。
もちろん、文化人類学者の観察結果は時として「差異感応的」に見えることもあるけれど。
後ろめたくて巨大な空白・・・
歴史小説というものにも、大河ドラマというものにも根本的に興味がない自分は、やはり根本的に駄目なのだろうか。

本当の孤独は失われた。インターネットの登場と同時に。
手書きの文字を書きつけるときの、石版にでも刻み込むかのような、あの硬質な感覚の喪失とともに。
貧しい者が陰気に笑う。そんな歌が好きだ。