・ブログ検索。
ブログ検索なんて今まで「何に使うっちゅうねん!?」という感じだったのだが、グロテスクな使い方を思いついた。
固有名詞なり言い回しなり、さまざまな言葉が「どの層に使われているか」を測るのだ。
(http://www.technorati.jp/search/347cafe)
(http://blogsearch.google.co.jp/blogsearch?hl=ja&ie=UTF-8&q=347cafe&lr=lang_ja&scoring=d)
挙がってくるページが随分違うもんなんだなぁ。
それでこの、「どの層」かということを、自動でフィルタリングするアルゴリズムが出来たらすごいよなぁ、と思う。
あれか、出てくる言葉の関連性か。
しかし、こうやって人の日記を読んでいるとどうにも疲れる。MPが減少してくるというか。

理由こそわからなかったけれど、誰もが誰かに対して、あるいはまた世界に対して何かを懸命に伝えたがっていた。それは僕に、段ボール箱にぎっしりと詰め込まれた猿の群れを思わせた。僕はそういった猿たちを一匹ずつ箱から取り出しては丁寧に埃を払い、尻をパンと叩いて草原に放してやった。彼らのその後の行方はわからない。きっと何処かでどんぐりでも齧りながら死滅してしまったのだろう。結局はそういう運命であったのだ。
村上春樹1973年のピンボール講談社(講談社文庫),2004(初出1980),p.6

人はどうして言葉など持ってしまったのだろう。

言葉さへあれば、人生の全ての用は足るといふ過信は行き渡り、人は一般に口達者になつた。もとは百語と続けた話を、一生涯せずに終つた人間が、総国民の9割以上も居て、今日謂ふ所とは丸で程度を異にして居た。それに比べると当世は全部がおしゃべりになつたと謂つてもよいのである。
柳田國男『涕泣史談』