郵便的不安たち。

・海の見えるラジオ。
となりの部屋で、今笑い声がする。
誰かが、いま、ここにいないということ。
なぜかふと、小学校の頃のことを思い出した。
何かの記念に小さなラジカセをもらって、夕食後から夜にかけての独りで過ごす時間、いつもラジオを聴いていた。
それはダイヤルを手で回して周波数を合わせる仕掛けになっていて、AMとFMが聴こえる。
ある日ダイヤルをゆっくり回していると、「海の見えるラジオ」というものに出会った。
知らない音楽がたくさん流れていて、知らない場所の名前がたくさん聴こえてくる。
神戸の街から電波がやってくるなんて、信じられなかった。
その日以来、水色のラジカセの目盛りの上に小さなしるしをつけて、天気や風向きによって変わる電波に合わせて少しずつダイヤルを調節しては、毎日窓辺に張り付いて、見知らぬ海辺に打ち寄せる波の音に、聞こえもしないのに耳を傾けていた。
♪PetShopBoys『GO WEST』
これは当時きっと学校じゅうで僕しか知らない曲だったはずで、それが何とはなしに誇らしい気持ちにさせてくれて、誰にも言わなかったけれどテープにとって擦り切れるまで聴いた。
それから数年後、ラジカセは壊れてしまった。
あれはまだ物置にあるだろうか、あるいはもう捨ててしまったかもしれない。

あちこちで面白いことをやっているひとはいて、それぞれカルト的なファンを作っているのかも知れませんが、みなバラバラに勝手にやっているから、その情報を集めるのはきわめて難しい。こういう状況だと逆に人々は、自分のところに届いた情報―デリダ的に言えば「手紙」―がどこから発せられたのか、配達の途中でどのように歪められたのか、また自分の投函した情報がどこに届くのか、そのようなことに非常に意識的たらざるをえない。つまり90年代の文化消費者は、いつも郵便的不安に取り憑かれていると思うんです。
東浩紀『郵便的不安たち#』朝日文庫,2002(初出1998),p.55

東さんについて。
初めて読んだ高校生の頃は「しゃらくさい」としか思えなかったけれど、デリダを「郵便」のイメージと絡めて読むというのは今考えてもなかなかだと思う。
=○=
・What is my calling?
どこかで聞いた、アフリカかどこかに住むおじさんの話を思い出した。
そこでは英語のラジオ放送が聞こえるようになっていて、おそらくその国に在留している米国軍隊の人々が聴くのであろうが、おじさんはラジオを自作し、毎朝起きるたびこれに熱心に耳を傾けている。
おじさんは英語が全くわからないのに。
そんなおじさんに誰かが理由をたずねたら、「これは神の声だから」、そんなことを言ったそうだ。
この話の意味するところが、今になってやっとわかるような気もした。
英語が世界標準になっていることが悪いのではない。
おじさんが愚かだということもさらさらない。
これは、世界が郵便的に成立しているということを表しているのだろう。
全体がつかめないこと。
耳をすませば、聴こえてくる音。
ラジオには、どこか神がかり的な魅力がある。
電話するアメリカ―テレフォンネットワークの社会史バグダッド・カフェ 完全版 [DVD]
=○=
・電波。
周波数帳 2008 (三才ムック VOL. 176)
同じ時期、実はこの本をこっそり愛読していた。
タクシーの無線の周波数や消防本部で使っている無線の周波数などがたくさん載っていて、知らない名前が山ほどある中に自分の知っている名前も少しだけ混じっていて、見てはいけないものを見てしまったような、聞いてはいけないことが聞こえてしまうような、なんとなく後ろめたい気がして、街はずれの小さな本屋さんで人目をはばかるように読んでは興奮していたっけな。