・ヨルマート

ただいま午前3時半。
今夜もヲルマートからクルマで帰還。
まるで中西部の暮らしだね。
http://www.businessweek.com/magazine/content/07_18/b4032001.htm
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20071009/137090/
暇なんでネットやって小説読んでる。



=○=


・「シバキ」は効果的か?

9日朝の日経新聞「経済教室」に葛西敬之氏がものを書いていた。
教育がらみのおはなし。
今日も大変威勢のよいおことばが並んだ。
「(今年四月に行われた全国学力テストの結果について)基礎知識はほぼ満足だがその活用能力にやや難があるという程度の分析ならテストをやるまでもない。」
「資質、能力の高い教員を確保する際の決定的な障害は、中世のギルドによるマイスター制さながらの教育学部優先の教員免許制度であり、わずかな給与の改善など無関係だ。」
(太字は筆者による)

だが、ここで1つ気になる発言。

「退路を絶たれたとき初めて個人も組織も現実を直視し、自己改革に活路を求めるようになる。」

これ、どうなんだろう?
「シバキ」によってイノベーションは起きるのか?


=○=


それにしても、経済学で教育問題を扱うのはとっても困難だと思う。
それがなぜだか、微妙にわかったのは、昨日。


=○=


・「先生」と「お客様」

警察署で免許更新のための講習を受けたら、講師が「先生は・・・」という1人称を連発していた。
対して市役所では始終「お客様」と呼ばれる。
人称表現は人間関係を規定する。
両方違和感のある表現だったが、帰り道ふと思い出したのは、柄谷行人マルクスその可能性の中心』の最初に出ていた「教える−学ぶ」関係と「売る−買う」関係と「話す−聞く」関係についての論考。
これら3つの関係を柄谷は等置するけれど、そこには亀裂が見えがくれしている。
たとえば公権力は、その亀裂の上に鎮座している。
あの警察署の「先生」は、「教える」存在ではあっても決して「売る」存在ではないと自己規定してるはず。
自分が中学とか高校とかで習ったほとんどの教師も同じ。

監獄の誕生 ― 監視と処罰

監獄の誕生 ― 監視と処罰

彼らは自分の今大学で教わっている経済の先生が言うような、「俺から受けてるミクロ経済学の教育サービス」なんて言い方は、絶対しないんだろう。
で、自分は完全に後者の考え方だから、前者の人々とは全く接点がない。
もちろん「人」を「モノ」として扱うこと、物象化、それに対する抵抗は理解できるし、それはそれで切実だと思う。
ただね、それとは関係なく、何というか・・・


=○=


・「逃げちゃだめだ!」

この街の人々はほんとうに言語表現がへたっぴだ。
交通安全の川柳を小学生に作らせるのとか、あまりにもあんまりなので全部やめてほしい。
「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」
というより、彼らは基本的に、ものを考える習慣のない人々なんだろう。
今日もまた、温泉付きの福祉施設から高齢者がいっぱい吐き出されて、そのまま無料送迎バスに乗せられていくのが見えた。