ゴテンバ買い出し紀行

そばを買った。
ナマケモノに喝、のつもり。
引っ越しそば。
このそばがいたむ前に引っ越しをすませてしまいたい。
そばにいらっしゃる方には贈ります。
ラク本郷ノ皆様ニモ、小石川ニモ、早稲田ニモ、井ノ頭沿線ニモ、モシカシタラ横浜ヤ大阪ヤ亜米利加ニモ、其ノ他色ンナ所ヘ持ツテ行クノデシヤウ。
とても大切なひとの許へと出かける。
事故にあわないように気をつけて。
昨日爆発した会社の飛行機に去年の秋乗っていたな、なんて思い返したり。
旅先のローマでは乗った地下鉄が帰ってきてすぐ追突事故を起こしてたり。
引っ越しそばを抱えて迷子になってしまいそうだ。


=○=


いつでもそばにいるよ。


って、そんなメッセージを伝えたい。
実際、誰と関わるかって、地理的距離はあんま関係ないと思う。
ここでいつも使っている「=○=」という記号も、実は、どっかからやってきた関係が、自分を結節点に、どっかへと断片が舞っていく、繋がっていく、そんなイメージを形象化しているのだ。


=○=


書庫にこもってお盆を過ごした。
それはかなり幸福な日々だった。
いくつかの記録を紹介してみる。


=○=


張競『文化のオフサイドノーサイド

文化のオフサイド/ノーサイド

文化のオフサイド/ノーサイド

これは面白かった。
地球経済の一体化、情報通信技術の発達。
それによって文化は画一化するか?
いや、それはないだろう。
国境を越えた文化の伝播のありかたが、「影響」から「結合」へ変わってきたという話が印象的だった。
たとえば「親日派」から「哈日族」へ。
グローバル化」というのは、日本以外のアジア諸国では「日本製品流入にほかならない」そうだ。

たしかに、台湾で放映された麒麟麦酒のCM(http://jp.youtube.com/watch?v=Bhn2QbCtiu0)
ここでの一青窈は、文化越境者として輝いている。
そう思う人は、日本でも台湾でも「結合」する。
思わない人は、何の「影響」も受けない。

このように、「国民文化」とかいうものには、もうまともな防波堤はないし、そしたら、そこにはもはや「アウトサイド」など存在しないことになる。
すべてが濁流の中にある、「ノーサイド」の世界だ。

とはいえ、逆の例もある。
1998年サッカーW杯のテレビ中継で日本代表に「根性論」と「愛国心」を「うっとうしいほど」「繰り返し」説いて顰蹙を買ったラモス。
彼の何がまずかったのか?
彼は、「日本」という文化的共同体として(そのときのテレビでの観戦者に)想像されている範囲に(そのときのテレビでの観戦者が考える)部外者として足を踏み入れてしまったのだ。
つまり、彼は「オフサイド」をやらかしたのだ。
文化的に「ノーサイド」の現代世界で既に「アウトサイド」は存在しないように思われるが、そこでは如何なる差異も消失したのではない。
逆に文化的「結合」の有無によって世界は沢山のまだらな色彩に塗り分けられているのであり、それを侵犯した場合、誰からともなく「オフサイド」の旗があがる。
そんな話。


=○=


僕の中では、世界を「島」のようなものとして捉えている。
大海原に浮かぶ、たくさんの群島。
どことつながっていくか。
誰とつながっていくか。
何とつながっていくか。
大切な人のそばに居られるようにしたい。


=○=


『キング』の時代

『キング』の時代―国民大衆雑誌の公共性

『キング』の時代―国民大衆雑誌の公共性

かつて『キング』という化け物のような雑誌があった。
日本語で書かれた雑誌で初めて100万部突破したもの。
「面白くて為になる」講談社文化の象徴。
この雑誌の社会的な意味をテクスト分析ではなく当時のメディア環境全体の分析によって明らかにした書物。
「国民的言語公共圏の生成と変容」という基調低音のようなイメージが斬新で興味深かった。
しかし本書の分析では、出版文化は、大衆への影響力の保持という方面では、すでに終わっている。
なぜなら、すでに「大衆」がいなくなってしまったから。
だったら、いまさら出版文化の擁護に馳せ参じようという吾輩は、やっぱりドン・キホーテなのだろうか?


その他面白かったもの。
「国家」とか「前衛」とか「文化」とか「環境」とか「開発」とか「生命」とか、この辺から考え直してみた。
マルチチュード

マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

戦争と万博
戦争と万博

戦争と万博

環境開発論
環境開発論 (1969年) (SD選書)

環境開発論 (1969年) (SD選書)

日本列島改造論
日本列島改造論 (1972年)

日本列島改造論 (1972年)

利己的な遺伝子
利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>


=◎=


本日は3名様。
「ハコネ・ザ・3名様」にてアウトレットへ。
たまには面白い服を着たい。
そう思って、今日は渋谷のブティックで働いている彼に洋服を選んでもらうことにした。
テーマは、「海辺の美術館で。」
なかなかいい感じになった。
ゆらり、ふわり。そんな、ふうな。
海辺の光景(かいへんのこうけい)。

=○=

自分が知ってるブランドは、ここでは確実にイメージと違う。
逆に知らないブランドは、純粋に面白い。
後ろ髪ひかれる思いで帰ってきた。


=○=


帰りがけに読むのは、百年の孤独
この夏はじめて醍醐味がわかった。

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)


=○=


「あ」
あ、新しい季節は なぜか切ない日々で・・・
い、命がけの なんて軽々しく言わない・・・
う、海をわたる 船の舳先につらなって・・・
え、エンドウ豆さん 僕の背中にそっと・・・
お、おしまいにした それは晴れた日の・・・


=○=


データでモノが言える人間になりたい。
予兆的な断裂を確証に変えていくこと。
それがおそらく経世済民の道なんです。
俺なんかが言ってもしかたないけどさ。


=○=


あ、なんかこのブログ終わりが見えてきたね。
「そば」にはじまり「そば」に終わる。
世界の「そば」に居る実感を持つことができた。
2007年夏は私にとってそんな稀有な季節だった。
最初の問いに対する答えとして。
「世界とは、夢のようなもので、繋がっていること、それだけがリアル」
そう総括しちゃってよろしいのかしらん?