ベタねえ


1
憂鬱のなか深夜の公園を散歩してきた。
帰り道の本屋で、瀧波ユカリさんの育児日記のようなものを立ち読みした。
「おっぱいマシーンになった私」など記述はおもしろく、瀧波さんが独楽のように、日々めまぐるしく変化する子供にあわせて動きまわってる躍動感のようなものは伝わってきた。
しかし、世界の見えかたがガラリとかわるような感興はなかった。
この非常にベタな文明のなかを生きていることについて。
この非常にベタな文明のなかを生きていられることは、幸運なのかもしれない。
「ここは何もかもよく整えられた世界一の国だよ」と海外から来た人は言う。
夜の公園でコウモリに追い回されて、かなり心細かったことと比べると、現代都市は、よく整えられて、なんと素晴らしい楽園でしょう、って気になる。
それでも、たとえば町の本屋の棚をみると、こんなにベタなことばの環境のなかを生きていられる人々の生態というものが、よくわからないし、私とはまったく関係のない存在のように思える。
そういうとき、泡のはじけるように、ここから消失したいように思う。
で、このように、ベタであることに堪えられない人は、瀧波さんのように日々の暮らしのなかで直感をとぎすませる、というより、何らかの理論的思考をたどるしかないんだろう。
とくに、実践理性のあたりについては。
2
やはり、ことばの環境があんまりベタだと人々は堪えられないのではないか?
ひとつ思いついたこと。
新語がたくさん出てくるのって、ベタであることに堪えられない人が使っているのでは?
「したり顔」と「ドヤ顔」は同じ。
「にわか雨」と「ゲリラ豪雨」も同じ。
そんなふうな。

「今日もゲリラ豪雨です」と女子アナがドヤ顔で言った。

なんという音...