なんとなく決める

1
こんなものがあった。
「エネルギー・環境の選択肢に関する意見聴取会」 http://kokumingiron.jp/
2
輿論をあつめる仕掛けについて。
何かを決めるとき、公開討論会のようなものを開くとする。
そのやり方について思ったこと。
「a」「b」「c」...という典型的な考えのうち、回答者はどれに近いか?それ以外の考えはあるだろうか?という問いを行ってから、意見のカテゴリーごとに別々に人をあつめて、討議をすればよいのではないか?
唯一解を討議で決めるのはナンセンス。
多数決は正しさとは無関係。

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)

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3
思うことをもう少し。
さっきの書類には、現代日本のエネルギー政策については「原子力の安全確保と将来リスクの低減」「エネルキー安全保障の強化」「地球温暖化問題 解決への貢献」「コストの抑制と空洞化防止」という、4つの価値体系・意味システムがあると書いてあった。これを切り出した人は鋭いと思う。

原子力の安全確保と将来リスクの低減」
→また原子力施設がひどいことになったら?
「エネルギー安全保障の強化」
→中東で紛争がおきたら石油がこなくなるよ?
地球温暖化問題 解決への貢献」
化石燃料をばんばん燃やしたらやばくない?
「コストの抑制と空洞化防止」
→電気代が上がって工場が海外に出ていってしまうよ?

たぶんこれで全部。他にあるかな?
ここで、私の言いたいことは、4つの価値体系あるいは意味システムは、相互にまったく無関係なのでは?ということ。こないだ私の言いだした「社会の多層性」が正しいとしたら、そうなる。
だから、政治的決定には答えというものはないのではないか?
「ある価値体系・意味システムによれば答えはこれ」という解答案がいくつも並んでいる状態がふつうで、そこから1つを選ぶところは、常になんとなく決めるということになる。
4
「なんとなく決める」過程について、ちょっと考えてみる。
心理学みたいな社会心理学みたいなフワフワした話になるが、民主的な社会*1での意思決定というものは、「社会の鏡」みたいになっている人の、なんとなくな誘導で決まるのだろう。
たとえば今回のこの書類のように「選択肢1」「選択肢2」「選択肢3」と並べて「どれも一長一短」と書くと、たぶん「選択肢2」が選ばれることになる。
前にうちの親父が会社の取引先からパソコン買ったら営業の人が「こうやって3モデル出すとサラリーマンってみんなミドルスペックを選ぶのですよ」と言っていた。
2030年の日本の原子力発電量は全体の15%くらいになるよ、と私のなかの占い師はいう。
それでいいのか?知らん。
どれでも大体おなじなら、まあどれでもよかろう。
歴然とした違いがあれば、人はなんとなくわかるだろう。
まあナチスを選んだ人々には、それがわからなかったのだが。
判断の材料として、なるだけ多くの価値体系・意味システムを柔軟にとりこむことができれば。ってのは、リベラルデモクラシーに近い考え。
この話はいずれ練り直す。
5
この先は思いつきだが、「1つの価値体系・意味システムから判断をくわえて、唯一解を求める」ことは「反復」に価値を置く社会に合う決め方だろう。いろんな宗教原理主義絶対君主制はこの方法をとる。
一方、「差異」に価値を置く社会なら、政策はコロコロ変わることを人(さっき出てきた小人?)は望むだろう。ある価値体系・意味システムから次のものへ。どんどん素早くとびうつる。
この2つの社会は、常にどっちがいいって決まるようなものではないね。
で、幸か不幸か、それが混じり合っている社会では、「なるだけ多くの価値体系・意味システムをとりいれて、ひとつずつ鋭い批判をやって、なんとなく決める」のがいちばんいいように思う。
「なんとなく」が気持ち悪いことは認める。

*1:ここハッキリ定義しないとね。いずれ練り直す。