半島へゆく。


半島っていう地形のもつ詩的なイメージってどこからくるのだろう。
川上弘美『真鶴』、松浦寿輝『半島』っていうフィクションに連れられて、桟橋から船に乗って陸地のまわりをゆっくりめぐる。
このごろ、おもったことを、少し。
・「侘」ってことばが、あたまのなかで明滅する。
・同時代の音楽にも美術にも漫画にもビデオゲームにも、単なる暇つぶし以上の価値を見出せない。なんも面白くない。残響ばかりを聴いている気がする。結局なにもおこっていないのだ。言い切ってしまうと、あらゆる文化現象は、前世紀(全盛期?)の遺物であり、通信技術・記録再生技術の草創期の躍動感はもうない。ってことになる。まあ通信技術・記録再生技術の草創期の文化の隆盛にしても廣松渉あたりは懐疑的だが。
・何か強い感情があったら、それは思索によって深めるものではなくて、薬物によって消すものである。という考えは、思想史的にわりと新しいようだ。SF時代というか。
・「遅れ」というイメージが、つねにつきまとう。『ちびまる子ちゃん』を読んでいたら、泣けてきた。
・80年代についてのイメージって、その人の空間的・社会的な立ち位置によってさまざまだ。バブル的な激しいあそびがあったのって、実は東京都港区あたりの一部だけで、他は、将来に不安のない幸福な時間のなかで、平凡に暮らしてみたり(『ちびまる子ちゃん』に出てくる静岡清水の人々)、あるいは少し非凡なことをしてみたり(たとえば京都一乗寺の人々とか東京新宿の人々とか大阪阿倍野の人々とか。)、そう考えると、現在と大差ない。ただし、環境がほとんど変わっていないので先鋭的な表現なんてのも、ほとんど同型反復になっているのだが。ってことを、宮沢章夫大塚英志あたり読んでいておもった。
・「哲学者は作曲家で、思想史家は演奏家です」って丸山真男の発言。ココロの片隅で、すごい天才の再来を待ってる。