待つこと?

神宮の花火に誘われたのだが、あまりにも仕切りがわるそうだったので、断る。
隅田川沿いのマンションにて、とか、屋形船に乗りましょう、とかなら、面白いのになぁ。
「待つ」ことを実感する場合とは、たぶん、時間の流れのなかで、未来に何か達成すべき目的があって、その途中で経過する時間そのものには、意味が見出せないときなのではないか。
三四郎』の電車内の場面を思い出した。
さして共有すべきものもないような誰かとのあいだに、長い待ち時間があって、摩擦なきよう馴れ馴れしく話す、みたいなことは、「異文化理解」の基本的な手法であって、しかし、それに違和感がある。ということに、引っかかりをおぼえる。
馴れ馴れしく話すことが、何かを成立させながら、何かを壊してしまうことって、両方あると思うのだ。
複数の人間が集まったときのコミュニケーションの形態を、全部あげて、それぞれスナップショットを撮ってみようか。
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まずありがちなのは、1人が核となって、他のメンバーをつなげる形態。
テレビの世界で「明石家さんま」がやっていること。電波塔。
さまざまな人間を、「雛壇」の上に載せて、単純化して類型化して相対化して、理解したことにする、というもの。
これはB.アンダーソンの「系列化」という概念で説明できる。
他には・・・(後ほど)・・・