米長 邦雄・柳瀬 尚紀『がを超える―米長勝負論講義』(1984)

前に神保町の小宮山書店で見つけて大量に入手した、朝日出版社が1980年代に出していた対談集の一冊。
訳者って重要だな、と近頃すごく思うようになった。
英語なら別段翻訳に頼らなくてもゆっくりなら自分で読めるし、訳書で読めないものは原書でもたいがい読めないようになっている。
だから、あえて翻訳家に頼るシーンって、その人の見識をたのみにすることが多いのだろう。
そんなとき、英語の翻訳における柳瀬尚紀の見識は、それなりに信用してもいいと思うのだ。
あと、哲学の木田元あたりも信用していいと思う。
他に、誰か圧倒的な<カン>を持った翻訳家っています?柴田、沼野あたりはおいて。

米長:将棋を知らない初心者がどうしたら強くなるかといったら、指すことなんですね。何でもいいから、1時間の間にいっぱいいろんなことを考えて1局だけ指すんじゃなくて、5分で1局ぐらい指して、1時間の間に10局ぐらい指す。何でもいいから指すんですね。とにかく駒を動かしてさえいれば、いちばん早く強くなるんですよ、覚えたての人は、そういう段階なんですね。何でもいいから触っていればいい。
柳瀬:翻訳も同じです。初歩の頃は、何でもいいから紙に書いていればいい。(p.19)

米長:指南番は、だいたい剣道でも何でもそうでしょう。試合なんかしないわけですよね。それで何をするかって言うと、詰め将棋を作るっていうことが江戸時代の名人にとってはいちばん大きな仕事だったんですよね。(p.72)

伊藤看寿の詰め将棋」

米長:調子のいいときというか、ツイてるときは、波を壊さないということをうんと心がけるべきなんだけど、苦しいときになりますね。自分自身が苦しいとき。そのときはどうしたらいいかっていうと、波を壊すに限るんですね。(中略)なるたけ辛抱してるうちに、向こうが間違うということがいちばん多いんだけど、ずーっと辛抱しているだけではダメなんです。もっとも、これも一つのカンっていうことになりますけどね。流れが変わらない。ずーっと辛抱しているんだけどね、辛抱していて、最後にどこで変えてやろうかというときに、「ここじゃないかな」と閃くものがある。それはもう理屈ではないんですよね。(p.141)

米長:つまり、将棋指しは商売が下手っていうことなんです。勝負に純粋過ぎるっていうことがあるんです。(p.189)

柳瀬:翻訳の場合、たとえばアメリカの現代小説の邦訳書を読んでいると、「タンパックス」なんて出てきますとね、わざわざ欄外にタンパックスについて訳注があるんですよ。「女性用の生理用品」なんてそんなことをわざわざこのいまの時代に書くような翻訳者はだめだと思うんですよね。ムダのない人なんだと思う。事実、そういう人が訳すとうまくはない。(p.212)