「本草学」の名残り。

春の雨。小石川植物園の近所にある喫茶店で、夕暮れ、窓の外を見ながらぼんやりしていた。
「成長」や「競争」に対して、まったく熱意がわかず、もうそういったこととは極力かかわりたくない気持ちだ。
上昇志向にドライヴされて動く人間と、そういうのを見るにつけ、幻滅してしまう人間・・・両方の方向性を持った人間がいる。
だから、たとえば行動経済学を現実に適用してパターナリスティックな政策を打つなら、よほど現実的な仮定をおいたモデルを作らないと、意味わかんない副作用が出て、災いの種になる。
あと、同じ競争にも「明るい競争」と「くらい競争」があるよねぇ。
「くらい競争」を社会から根絶しよう、とまで言うつもりはないが、少なくとも両者は根本的に違う作用をおよぼすことは、確実だ。
こんなことを話したら、きみは感覚的に生きているね、と、ある先輩から言われた。
勉強とか労働とか、本質的にナシで済ませたい派だからなぁ・・・
あらゆる場面で出くわす、シニフィアンシニフィエのあいだを埋める過程が、毎度不毛な作業に思える。
生得的にあるものを捨てて、社会制度の中に自らをどこまでも馴致させていく過程、それが人生ということはあるまい。
とはいえ、さすがにこんなに労働から引き離されていると、自分の社会的存在としての確からしさに疑念がわいてくるけれど。
社会はシステムであり、制度の束ではない・・・といって、間違いはないだろうか?どうだろう・・・