・BAMBI 157。
サイバーパンク小説を書き始めた。
不本意だろうな、それこそキリコの絵の中の人になってしまうだろう。
=○=
QWERTY
今期の大学の試験が終わって来年からの身の振り方が決まったら、東京の借家を引き払おうかと模索している。
大学は試験のときだけ来ればよくなるから、それなら月1くらいの頻度で実家から通えばいい。
あとは・・・ソウルか南イタリアか、慣れない土地で1ヶ月くらい暮らしてみたい。
=○=
・「何ものか」が見えがくれしている。

 逆に,英語を母国語とする研究者には,母国語での公刊機会に恵まれているという幸せと,そうした翻訳可能性を突き詰める機会が乏しいという不幸が共存しています。経済学だけではなく,社会科学や人文科学に共通していることだと思いますが,トップランクに属する英文学術雑誌には,英語を母国語とする研究者の論文で,重要だけれども,完全には翻訳可能でない「何ものか」を含むものがしばしば掲載されます。このことこそが,母国語で学問の主導権を取った人々の最大の幸福だと思いますが,英語を母国語としない研究者にとってはほとんど参入できないところでもあります。英語を母国語とする研究者にとって,そうした「何ものか」を封じ込めるには,数学的体系に翻案できるかどうかを学問規律とするしかないという,かなり差し迫った状況が他方であります。
 詩は,翻訳可能性にいっさい宿命付けられていないので,合理化してしまえばかえって意味がなくなる神話的な世界も,ある時期の環境にローカルな要素,あるいは,ある特定の集団にのみ意味のある要素も,すべて囲い込んでしまうことができます。押韻を基調とする詩であれば,どんなにうまい翻訳をしたところで,その言葉を母国語としない人は,母国語にする人が読むように読むことはできません。翻訳や解釈を拒絶したところに,詩が詩であるゆえんなのかもしれません。先ほど,昔の漢語と日本語の翻訳を,現代の英語と日本語の翻訳とパラレルに触れましたが,中村真一郎氏が指摘するように,優れた漢詩を書いた日本人は多いが,優れた英詩を書いた日本人ははるかに少ないわけですから,まさにわれわれは,翻訳可能性に宿命付けられた環境で英語に接してきたのだと思います。
(http://www.econ.hit-u.ac.jp/~makoto/shijinnnoheya.htm)

=○=
・高い「塔」が見える。
にゅめれーる、という単語のやわらかい響きを思い出した。
さしあたって「塔」を基準に考えてみよう。
街の真ん中にモニュメンタルな場所―広場と「塔」があって。
高い塔が見える範囲を、さしあたってその塔を地理的な中心とする「街」と呼ぶことにしよう。
そう定義したら・・・「街」の大きさは何によって決まるのだろう。
「塔」の高さ、地形、天気やなんかによる視界・・・

日本の都市圏設定基準。
(http://www.urban.e.u-tokyo.ac.jp/UEA/UEADef.pdf)