神保町へ。
三省堂と神保町交差点のあいだくらいに小宮山書店という古本屋があるのだが、今日はそこで辞書を買ってきた。
支払いの済んだ本をその場で紙に包んでもらったが、その手捌きたるや・・・必見である。
「ちょっぴり誇らしい気持ち」になって「居ずまいをただしたくなる」のは、浅草あたりで老舗のどぜう鍋をいただくときの感情にも似ている。

=○=

歴史と哲学の交差点で起きる問題について。

通時的に存在するべき事柄が共時的に結ばれてしまうと、新しいだの古いだのという論争になってしまう。
発展だの衰退だの、オリジナルだのパクリだの、その手の論争はいろいろある。
たとえば、自分は今、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』をゆっくり、一日一言くらいの速度で読みすすめているのだが、仮に今ここで、

「1 世界は成立していることがらの総体である。」

という1行にしびれた、という件について熱弁をふるおうとも、それだけでは「なんとナイーブな、後期ウィトゲンシュタインは云々・・・」と返されるのがオチであろう。
概説書なり伝記なりを読めばその辺の事情は整理されているのだろうが、自分はここは敢えて、この本だけを手掛かりにじっくり何年もかけて取り組んでみようと思う。
何というか、学説史なり何なりの「舞台裏読み」をする必要がないというのは、ここでは幸せな位置取りであろう。
フィールドに立つ必要がないということ。
たとえば、フィールドワークに行くと、初めての土地で地元の人の中に入って違和感なくふるまうために、それなりの「知ったかぶり」が必要になることがある。
知性と衒学趣味と「空気読め!」が混ざり合っているこの世界で「知ったかぶり」をする必要がない、というのは、沼地での舞踏会、のようなものに巻き込まれなくてすむということだ。
ありがたいことだ。

=○=
・おおきなおともだち。
つまり、声優さんは保母さんの役割なのだろう。
だから声ヲタはばかにされてしまうのだ。
たとえばディズニーランドで「かわいい」を満喫する人々と、アキハバラでそれを満喫する人々、両者は構造的に等価であるはず、といくら騒いでも、ばかにされてしまうのだ。
自分の中では「かわいい」ことは「どぎつい」ことではなく、「個性的な」ことでもなく、「共感できる」ことでもない。
そういう一切のものではない何かである。

=○=

何かお手伝い的なことをまたしたくなってきた。