寺社と蕎麦。

蕎麦。
月が出ただの空がきれいだの、本当にどうでもいいことではないか。
そういうことに対して人しなみに浮かれ騒ぐことが、「鋭敏な人々」の間で、ある種の決め事になっているというだけではないか。
月だの空だの、自分もそんなことをいっていた時期が実はあるのだが*1、あれは月の満ち欠けに連動して精神状態が変動するような気がしていた時期があった*2、というだけのことで、最近もうあんまり関係なくなっている。
満月の夜は少しだけ気をつけなくちゃいけないね、という程度のこと。
「今日もいい天気ですねぇ」
「そうですねぇ」
しかしそんな日々は悪くなくて、世の中だいたいわけのわからない決まり事に従って回っているのだろうけれど*3、それとは違う意味で、なんか、違う。
=○=
関係ないが、年末に蕎麦を食っている。
食いながら昔の寺社の食生活について思いを馳せてみた。
やっぱり寒い夜には蕎麦など食っていたのだろうか?
蕎麦づくりに関して、畑を耕すところから蕎麦を打つまでにいたる一連の動作が、どことなく求道的な感じがして、妙な連想をしてしまった。

照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。

衒いのない言葉をつむぎたい。
=○=

ままま まきもき むくむく・・・絵はひどいのだけれど。

*1:「自分にも」のほうが適切な表現か?

*2:「ある」のほうがいいのか?時制の取り方がイマイチわからない。

*3:「ハレ」あるいは断絶と「ケ」あるいは持続の二項対立による祝祭論を持ち出すまでもなく、そこには多分見えづらい意味があるのだろう、と少なくとも薄々みんな信じて暮らしているわけだ。