いたづら

  • 「fancy」と「和」と「私」

今日も代官山へ行った。
思ったこと。
結局自分は「女の子」である、それは「fancy」を受け付けないという一点に集約されるんだと思う。
輸入雑貨のお店とか嫌いじゃないけど、それでもあの石鹸のような香りを長時間嗅がされると、どうしても頭が痛くなってしまう。
白檀の香り、樟脳の香り…そういうののほうが好き。


かといってお前は日本人か、と言われるとそれも何だかよくわからない。
「和」的なものはきらいじゃないけどそれ以上に合理主義的なものが好きで、渋谷のセルリアンホテルみたいにあえて「和」とかやり出したら、観光産業としてならともかく個人としてああいうスタイルを選んだら終わりだなと思うけれど、それは逆にきっと、どんな環境でも自分は「和」的なものを守り通せるだろうという、楽観的な見通しから来ているような気もする。


坂口安吾堕落論』に似たようなことが書いてあった気がする。


=○=

  • 「力」について

「力」を持つこととは、「力」を持つことの「脱構築」への可能性を開くことである、と言いかけて、自分が「脱構築」の意味をうまく説明できないことに呆れた。

相対化に近いんだけど、それだけじゃなくて、言いたいのは何かというと、ありきたりな階層秩序をぶっ壊した後も何らかの価値判断が残されている、という状態のこと。

それだけではなく、自分の知的基盤がかなり危なっかしいものであることに最近特に気づかされる。
アリストテレス形而上学』から足場を組み立てることにした。


=○=


「3号線を久留米から香椎へ向かって…」


高校の同級生が実家から大学のある横浜まで自転車で走破したらしく、単純に感動した。