神はわれらを。(仮)

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郊外のジャスコ、あるいはネット通販...流通の効率化は社会の知性を、あるいは文化への感度を減らすほうに作用している。
2ちゃんねる」に行けば、それを憂う人々の良心的な書き込みがあるではないか、というけれど、そこには同じくらいの数の悪意ある、あるいは素人の書き込みもあって、結局、昔ながらの近所のオッチャンの発言より信用できるということはない。
で、癖があるけど主人が惚れ込んでいるものより、手軽で人気のあるほうへ人が集まっていて、こんなのダメだと思う。
魚屋が馴染みの客に「今日はこれうまいぜ」って言うことが、ジャスコでは絶対にあり得ないからね。
いやいや、ジャスコに行ったら或はホームセンターに行ったら商品がいっぱいあって、職人はテンションが上がる、という反論があろうが、ここで言いたいのは、その職人さんの持っている「社会の知性」あるいは「文化への感度」というようなものを、次の代にどうやって引き継げるか?という話。
自然界には人間社会の培ってきた現代の科学技術をつかっても制御できない変動があって、それを敏感に察知して反応していくのが人間の、というより動物の、というより生物の行動だ。
自然現象を背景に/母体として/収奪して生きているのが人間だからね。
よく文学作品のブックガイドとかで、古典的名作は歴史的なスクリーニングを経て生き残っているから優れているんだ。という話をする人がいる。
しかし、「人気が出る→人気があると聞いて買う→さらに人気が出る→...」という流れだけが存在するのだとしたら、この過程のどこに「誰かが惚れ込んでいる」という要素があるのだろう。
それだけが参考になるのに...
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技術が社会を作るわけない。のかもしれない。
それと同じくらい頻繁に、社会が技術を作る、ということもある。
佐藤俊樹『社会は..の夢を見る』
逆のことができないかな?
インターネットが人間社会を劣化させる原因として働くのではなく、よりよいものの指針になるように作用する可能性は...
参考になるように、90年代のセゾン界隈で働いていた人々のエスノグラフィを作ってみたらおもしろいと思うのだが...