別の物語

たとえば、ボジョレーヌーボーという社会現象にどう反応するか。
旧市街の住民なら、だます-だまされる(情報強者-弱者)関係ではなく、共同体の一体感というか、祭のような、何やらモワモワという盛り上がりがあって、肯定的なとらえかたをするのだろう。
自分は郊外出身だから、その辺よくわからないが。
今の郊外で酒瓶1本買うというのは、ただひたすら巨大な店へ出掛けて、何の商品知識もないバイトが棚に品物を黙々と陳列しているのを横目に見て、ネットで調べた価格と品質の情報*1をもとに品物を選んで金を払う・・・という程度だろう。
かといって郊外の住民は概してこの種の祭に否定的か、というとそうではなく、マスメディアの広告とネットメディアの噂を総合して各自判断を下している。
ここでは、伝統的には最重要だった「身近な人との相談」という共同体の層は抜け落ちている。

店が客に求めるのは、金を払うマシーンという機能だけで、客は誰であろうと関係ない。
猫でもロボットでもいいだろう。
店が店員に求めるのも、品物を陳列するマシーンという機能だけで、店員は誰であろうと関係ない。
猫でもロボットでもいいだろう。
少し一般化して。
郊外で他人と関わるための手段は、金だけだ。*2 *3
宮台真司が、閉塞感のただよう日本社会の打開策は、メディア・リテラシー教育を終えた人々による共同体自治にある、みたいなことを述べていて、なにか違和感があったけれど、それは郊外の住民のための打開策であって・・・というようなことを最初に思って。
旧市街にはシステムのなかにいるという安定感・安心感があって、それはそれで心地よいのかもしれない。
あまり効率的ではないし、ときに非常に愚かしく致命的な失敗を招くこともあるけれど。

*1:こういうあてにならない情報ね。 http://toki.2ch.net/test/read.cgi/wine/1132151894/l50

*2:伝統的には異教徒という人々がそういう存在だったのだろう。

*3:他に人と繋がるきっかけとしては、1.幼馴染、2.共通の趣味があるけれど、2は弱い。単に「韓国スターが好きです」「一緒にクラブで盛り上がりましょう」のような繋がり方は、薄いように思う。単なる情報交換は切断できる。