「風景」再論

ここからのつづき。
(http://d.hatena.ne.jp/soraniukabuniji/20090819)
「風景」として語られる事柄のどこに違和感があるかって、そこに生きた現実や時間の経過がないこと。
車窓からガラス越しに、あるいは絵画のキャンバスの向こうに見える「風景」というものには、そこを基盤に生活を営むという考えやそこで行き交う時間は織り込まれておらず、だから、一面的なのだ。
たとえば、工学的な構造物のある「風景」について美醜を云々した場合、断片的で個人的な記憶をつなぎ合わせた、きわめて浅い話になる。
別の例では、小説を「風景」の集まりとして考えると、物語の要約を地図の上で展開する、という以上の深みをとらえることができなくなる。
言葉のなかに風景が立ち上がる風景学入門 (中公新書 (650))
それでは、ある人の視野すべてを覆うくらいの広さを持つ視覚的現象について、人が「風景」として捉える以外の手法が何なのかは、また次回。
たぶん、そこに「身体」が現れる。
(つづく)