かがやき。

今すぐ消えたいな、と、時おり思う。
花火みたいになりたい。
そういえば、花火会場を誰かとうろつくのって、爆撃から逃げることに似ている、と昨年直感した。
音と光が目の前で炸裂する。僕らはとどまる場所を占めることができず、人いきれの中を、ただ流れてゆく。
はて、さて、精神的な充足感がとても低いとき、どうしたらいいのだろう。
そうした充足感に占める外生的要因の大きなものから順に、旅、認識/思索、趣味、どれをとってもあまり楽しめないでいる。
辛うじて愉快なのは人と話すことくらいか。
ココロを揺さぶる感覚を求めている。
旅:記号を前にして写真を撮って移動する、という繰り返しに、未知との遭遇がないことを嘆くわけだろうけれど、その反応も定型化された1つの型でしかない。
認識/思索:近頃ろくな認識がない。勉強めんどうだ・・・というのは自分が悪い。
趣味:自己表現かインタラクションか鍛錬か選ぶなら、今は鍛錬をやりたい。
醸造やりたいな、と思って、農学部の説明会に行ってきたら面白そうだった。
何がいいかって、世界の秩序のはじまりや変化の場面に居合わせることができて、そこに自分の力を発揮できることが、やっぱりいい。
きっとそれをおいたら、僕にとって、人生において意味のあることって、何ひとつ、無いのだろう。
だって、無宗教で、アナーキーで、文化的相対主義で、リベラリストだから。
要するに、辛いことがあったとき、「それでも生きる」を選び取るためのサンクションが、現状ほとんどない。
このような形で、近頃漠然と立ち昇ってきた、ネクロフィルな感情が、どうやら説明可能なかたちに収まりつつある。