「げす」なこと。「世界」をかたる。

ああ、すばらしく春です。
おれも旅がしたい。
二輪車に乗りたい。
仏像見に行きたい。
=○=
西成彦
新刊が出たようだ。三省堂でゲット。
エクストラテリトリアル――移動文学論2 (移動文学論 2)
=○=
・「世界」をかたる。
パブリッシャー―出版に恋をした男
現時点で「世界」を語る視点はどこにおいたらいいのだろうか。
「世界文学」というコンセプトが私にはわかりません、とトム・マシュラーは明言した。
少なくとも僕は怖くて何も言えないや。
僕が世界を把握しているって!?そんなはずがない。
書棚に集めた千冊あまりの仲間たちを総動員したとしても。
大澤真幸・・・
=○=
・「げす」について。
意味論ではない。
広告関係にアンテナを張っている友人と話していたらふと出てきた「げす」という言葉。
広告にもいろいろなものがあるが、ビールの宣伝はとりわけ安直で「げす」なものが多いという。
なるほど、と思いつつその表現が妙に引っかかっていたのだが、謎が少しだけ解けた。
お金の話だ。
たとえば国会中継
公金を使い込んだ...税金を安くしろ...延々お金の話が続く。
毎晩やっているワイドショーっぽいテレビニュースを久しぶりに見たのだが、「そうだ、そうだ!」なんて酔った拍子に頷きたくなる放言は全部お金の話で、ぞっとした。
お金の話にぞっとする、という心的現象が一度立ち上がると、テレビの前でも、喫茶店でも、街を歩いていても、どこでも「ぞっとする」ことばっかりなのに気づく。
こんなにも貧相な社会に暮らしていたのかおれは・・・とげんなりした。
経済なんて当たり前だが世の中でいちばん「げす」な事柄だ。
カール・マルクス*1に訊くまでのこともない。
=○=
・「放言」について。
開かれた社会とその敵 第1部 プラトンの呪文開かれた社会とその敵 第2部 予言の大潮
まともな意見か「放言」かを決める基準、それはさしあたって反証可能性が確保されているか否か、ということにしておく。
そうすると、例えば「政府が関わった産業は全てダメになっている」などというのは「放言」となる。
ここでは「関わった」の基準と「ダメ」の定義がはっきりせず、反証可能性が確保されていないから。
お金の話をしたら何か「価値」のある議論をしているように思えるのだが、それは違う。
「放言」は「放言」でしかなくて、下手な経済談義は下手な文明論なんかと同じく「げす」なものだ。
いや、もっと悪いかもしれない。
文明論というか、ある社会の枠組みに関する論議というか、社会正義に関してまともなことを言おうとすれば、様々な極限状態を前提としたかなりの思考実験が必要となる。
浅薄な議論はすぐに底が見える。
自由はどんな場合に尊重されるべきなのか、とかね。
そんな文明論と比べたら、底が見えやすいようで実は見えづらい分だけ、お金の話のほうが余程とっつきが良くて、その分たちが悪いのかもしれない。
それでは、今文明論をはじめるとしたら、一体どんな議論が可能なのだろうか。
先日聴いた高橋源一郎の講演会での文明論の安っぽいことといったら、なかった。
文明論之概略 (岩波文庫)
=○=
・とりあえず。
「人前で金銭の話をするのははしたない」ということにして一度その手の話を封印してみたらどうだろう。

*1:資本論』春休みのうちに読んでおこう。
あんなに浮世離れしたもの、きっと今しか読むときはない。
寝ても覚めても読書三昧、というのは現時点の僕にはしんどくて、あまりやる気が出ないけれど、というのはそれなりに焦燥感をおぼえるべき状況なのだけれど、まずはそこからはじめてみたい。
自分は少数の事柄をじっくり考えることは苦手で、むしろ物量とか知識の量を頼りにするタイプなのにもかかわらず、ここのところ知的蓄積が本当に足りてないので、このままだとあと少しで枯渇する。